島人の夢〜2010興南高校春夏連覇に見る“野球の力”
こんばんは、フサイチです。
今日初めてZOOMで会議をしました。
すごい!いろんな機能があるし、もっともっと教育に活かせる方法を
模索していきたいです。
今日は「島人の夢〜2010興南高校春夏連覇に見る“野球の力”」
というテーマで書きたいと思います。
高校生の、9人の野球のプレーで、
これだけ多くの人間を感動させることができるんだ。
野球の力、若い力の奇跡をできるかぎり言葉にしたいと思います。
1、地元の期待
沖縄の甲子園の歴史は、苦難の歴史と言えます。
沖縄勢の甲子園初参加は1958年、当時はまだ米軍統治下でした。
植物防疫法により甲子園の土を沖縄本土に持ち帰ることができず、
那覇港への上陸目前の海に捨てたというエピソードもあります。
そして10年後の1968年、
現興南高校監督の我喜屋監督が主将として出場した沖縄の興南高校。
当時、沖縄県勢は春夏通じて、甲子園で1勝しかしていませんでした。
興南は、県勢「1勝の壁」を見事突破し、
一気にベスト4へと躍進します。「興南旋風」です。
しかし、インタビューでは「授業は英語ですか」と質問されるなど、
沖縄はまだまだ、日本から離れた存在でしたが、
沖縄野球の実力を、甲子園で見せつけました。
その後、1990、91年に沖縄水産が夏準優勝、
沖縄県勢は時代とともに甲子園を席巻します。
しかしただ一つ、夏の「真紅の大旗」だけは、
海を越えることがありませんでした。
夏の全国制覇は50年以上、沖縄県勢の悲願でした。
2、島人の夢かなう
2010年、トルネード投法の島袋(元ソフトバンク)という圧倒的なエース、
我如古、真栄平、国吉といった破壊力抜群の打線、
名将、我喜屋監督率いる興南は、春の甲子園に登場し強豪校を次々と撃破、
圧倒的な戦力は「高校野球史上最高のチーム」とまで言われました。
当然、夏の甲子園にもダントツの優勝候補として登場します。
そして、沖縄県民の悲願、夏の全国制覇という期待もありました。
沖縄では他県とは違い、県勢の試合になると街から人が消えます。
皆店を閉め、テレビの前で甲子園応援をするためです。
そんな沖縄県民の期待を一身に背負いながら、
それでも我如古主将は、
「夏の甲子園で優勝することが本当の目標」
と、 揺らぐことなく春夏連覇を目指しました。
順調に勝ち進む興南の最大のピンチは、準決勝の報徳学園(兵庫)戦でした。
センバツベスト4の報徳は疲れが見える島袋を攻め、
2回までに5点をリードする一方的な展開となります。
しかし、5回のエース島袋のヒットを口火に、ホームラン攻勢ではなく、
後ろにつなぐ全員野球を展開します。
5本のタイムリーを重ね、見事6−5で逆転勝ちを収めます。
決勝の相手はプロ注目、一二三投手(元阪神)を擁する東海大相模(神奈川)ですが、
好投手相手に、序盤から打線が爆発しました。
13−1で勝利し、夏の全国制覇、上6校目の春夏連覇を成し遂げました。
沖縄の悲願、島人の夢が叶った瞬間です。
沖縄県民の期待と応援は、他県とは明らかに異質でした。
興南カラーのオレンジ一色のスタンドは甲子園の観客席を、
ほぼ全て埋め尽くしました。 指笛での応援、「ハイサイおじさん」など、
特色のある応援は、その年の甲子園の象徴でした。
「沖縄県民で勝ち取った優勝」という我如古の言葉通り、
優勝の瞬間、沖縄県民は涙を流し喜びに暮れ、
口々に「ありがとう」、「彼らは沖縄県の誇り」と言いました。
3、あとひとつ
この年の熱闘甲子園のテーマソングは、
FUNKY MONKEY BABYSの「あとひとつ」でした。
その中でこんな歌詞があります。
”あと一粒の涙で 一言の勇気で
願いが叶う その時が来るって
僕は信じてるから 君も諦めないで
何度でもこの両手を この空へ“
何度も何度も逆境に立たされ、
それでも「あとひとつ」と諦めず、
信じて追いかけつづけ、叶えた夢でした。
「たった9人の、18歳の高校生のプレーで、こんな感動が生まれるんだ」
「同じ土地で生きている、じっちゃんばっちゃんの声援で、
高校生はこんな信じられない力を発揮できるんだ」
「野球には、こんなに人を動かす力があるんだ」
野球の力、無限の可能性を、感じずにはいられないフサイチでした。